『あなたがた信仰する者たちよ、アッラーを畏れ、(言行の)誠実な者と一緒にいなさい』

(クルアーン第9章119節)




 ナフジュル・バラーガ Nafj Al−Balagahah
   ---イマーム・アリー・イブン・アブー・ターリブの説教、書簡、格言集 ---




説教219 

クルアーン節の朗誦 


あなたがたは(財産や息子などの)多いことを張り合って、現を抜かす。墓に追い立てられるまでも。(聖クルアーン102章1−2節)

 それからこう言った。

彼らの目標は(達成まで)なんと遠いことか。この訪問者たちはなんと怠慢であろうか。
物事はなんと困難であろうか。教訓に満ちた物事からは学ばなかったのに、遠い場所からは
学んだ。彼らは先祖の死体を自慢するのか、それとも土となった死人の数を自慢するのか?
 魂が抜けて動かなくなった死体を蘇らせたいのである。彼らには、うぬぼれの源泉ではなく
教訓の源泉となることの方に資格がある。栄誉の源泉ではなく屈辱の源泉となることがより適している。

彼らはかすんだ眼で彼らを見、無知の穴に落ちた。もしも彼らが荒廃した家や何もない中庭で彼らのことを問うていたならば、彼らは言ったであろう。誤り導かれたままで大地の中へ行ってしまった、あなた方も無知のままそこへ向かっているのだ、と。あなた方は彼らの頭蓋骨を踏みつけて、その亡骸の上に建物を建てようとする。彼らが残したものに見入り、彼らが居なくなった家に住む。彼らとあなた方の間に置かれた日々もあなた方を悲歎し、悲歌を朗誦している。

彼らは目的地に到達することによってあなた方の先を行く走者で、あなた方より先に水場に到着している。彼らには名誉の地位があった。高慢に満ちていた。彼らは支配者だった。地位があった。だが今は、土に覆われた穴の中で、その土に肉体を食われ、血を飲まれている。生命を失った彼らは墓の穴に横たわり、もう成長することはなく、隠れてしまい、見つけられることもない。危険が近づいても恐れない。不幸な状況に嘆くこともない。地震が起きてもかまわない。雷を気にすることもない。彼らはもう去ってしまい、戻って来ない。彼らは存在するが見えない。統一していたが今はばらばらである。愛想よくしていたが今は離れ離れである。

彼らの勘定書はわかっていない。彼らの家は静かだ。時の長さのせいでも場所が離れているからでもない。死の杯を飲まされて話すことが出来ず、耳は聞こえず、動けないからである。
まどろんでいるかのように。彼らは情愛を感じることのない隣人同士か、互いに会うことのない友人なのである。知り合いの関係はなくなり、友情の絆は切れてしまった。
したがって彼らは集団でいるのに誰もが一人ぼっちで、友達なのに見知らぬ人なのである。
夜の後の朝にも明日の夕暮れにも気づかない。彼が旅立ったときの夜も昼も彼らにとってはもう存在しない。彼らの留まる場所が変わったことの危険が、心配していたより深刻であることを彼らは理解した。その印が彼らの想像をずっと超えているのを目撃した。二つの目的地(楽園と地獄)が恐怖や希望を超越して彼らのために広げられた。もしも彼らに話すことができても、目撃したこと説明するのに物も言えなくなっただろう。

彼らの痕跡が消え、彼らのうわさが聞かれなくなっても、眼で教訓を知ることはできる。
眼が彼らを見、知性の耳には彼らが聞こえ、言葉なくとも彼らは語ったからである。
それで彼らは言った。わたしたちの美しい顔は破壊され、繊細な肉体は土で汚されている。
わたしたちは朽ちた埋葬布に巻かれている。窮屈な墓場に苦しみ、見慣れないことが広がっている。静かな住処は荒廃した。美しかった肉体は消えてしまった。わたしたちの知られていた容貌はおぞましいものになってしまった。奇妙な場所の滞在期間は長くなった。苦痛から逃げることができず、窮屈が楽になることもない、と。

そこで、彼らを思い浮かべてみるならば、もしくは彼らを隠す覆いが開かれたならば、彼らの耳は聴覚を失い、目に土埃が溜まり、活動的だった舌が粉々になり、これまでになく目覚めた心が胸の奥で動くことはなく、体はどこも奇妙に腐敗したために変形し、災難への道が整えられたとき、このすべてが無力に横たわり、差し伸べてくれる援助の手はなく、彼らのために悲しんでくれる心はどこにもいない。彼らがこんな状態でいるとき、彼らの心が嘆いていることに、彼らの目に溜まった土埃に、あなた方は確かに気づくであろう。

彼らの困難はどれも大変なもので、その状態が変わることはなく、苦痛は消えない。どれほど多くの、威厳ある肉体と驚くほどの美を大地が飲み込んでしまったことか。現世ではたくさんの楽しみを味わい、大切に育てられていたのであったが。悲嘆の時ですら享楽にしがみついていた。苦しみに襲われても現世の享楽と遊戯の慰めに逃避した。現世が彼を笑っていた間、彼は現世を笑っていた。人生は怠慢だらけだったからである。その後、時はとげのように彼を刺し、日々は彼の精力を弱め、死が彼を近くで見始めた。それから彼はこれまで味わったことのない悲しみに圧倒され、以前の健康に代わって病が姿を現した。

それで彼は医者から教わったことに専念した。すなわち、熱を冷やし、風邪を熱いものの服用で治そうとしたが、冷やしても熱の病をさらに悪化させるだけ、熱くしても寒気を増すばかりでどうすることもできず、体質に合わせて節制しても、どんな病気も酷くなるばかりで、医者にはどうすることもできず、看護人はひどく嫌になり、家族は病気の説明にうんざりして見舞いの人びとに答えるのを避け、隠していた深刻な知らせのことで彼の前で口論した。それで誰かが「これが彼の状態なのだから」と言い、回復を祈って彼らを慰めると、他の者は、患者に寂しいと訴えて、前の世代にすでに降りかかった災難を思い出す。

愛する者を後にしてこの世から去る準備をする段階で、彼は深刻な呼吸難に襲われ、感覚は麻痺し、濡れていた舌が乾いた。今、彼は答えを知っていた幾つもの重大な質問に答えることが出来ず、彼の心臓に負担のかかる幾人もの声が聞こえたが、尊敬していた老人や、面倒みていた若者の声にも、聾唖のように応じることができなかった。死の苦痛は、言葉で説明できぬほど、いや、この世の人びとの心で察することのできぬほど、恐ろしい。




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