『あなたがた信仰する者たちよ、アッラーを畏れ、(言行の)誠実な者と一緒にいなさい』

(クルアーン第9章119節)




 ナフジュル・バラーガ Nafj Al−Balagahah
   ---イマーム・アリー・イブン・アブー・ターリブの説教、書簡、格言集 ---




説教185 

アッラーの唯一性、
他の説教には含まれていない知識の道理について  


アッラーに(種々の)状態を当てはめる者は唯一性を信じていない。
かれを類似させる者はかれの本質を把握していない。
かれを説明する者はかれを示していない。
かれを指して想像する者はかれを意味していない。
そのもの自体で知られるすべてのものは創造されたものである。
他のものの恩恵によって存在するものは(原因の)結果である。
かれは働きを営むが、道具の助けによってではない。
かれは限度を設けるが、思考の働きによってではない。
かれは豊かであられるが、獲得によってではない。

時間はかれの連れではない。手段がかれを助けるのではない。
かれの存在は時間を先行する。
かれの存在は不在を先行し、かれの永遠性は始まりを先行する。
感覚はかれが創造したものであるから、かれには感覚がないことが認められる。
さまざまなものに反対のものがあるので、かれに反対のものはないことが認められる。
また、事物には類似があることから、かれには類似するものはないことが認められる。
かれは闇に対比する光を、薄暗さに対比する明るさを、湿りに対比する乾燥を、
冷たさに対比する熱を創造された。対立するものの中から作用(特性)を生み出させた。

かれは多様なものを融合させ、遠くのものを近くに寄せ、合体するものを引き離す。
かれは制限によって限定されず、また数字で数えられない。
物質の部分は同種のものを囲むことができ、有機物はそれに類似のものを指摘できる。
「ムンズ」(〜から)の語はそれらの永久性を否認する。
「ガド」(発生時間の近さを示す)の語はそれらが永遠に在ることを否定する。
「ラウラー」(もしも〜でなかったら)の語はそれらを完璧から引き離す。

それらを通じて創造主は知性に顕示し、それらによって視覚から守られているのである。

かれに運動と静止は発生しない。そのようなことがどうして起きようか。
かれがそれを生じさせているのに。どうして物をかれに帰すことができようか。
かれが最初に創造されたのに。どうして物にかれが現れることができようか。
かれが最初に出現させたのに。
もしそうだったのだとすれば、かれ自体が多様性に従属することになり、
かれは(部分として)分断され、かれの本質から永遠性がなくなってしまう。
もしもかれに前があっとすれば、後ろもあったことになる。
かれが完了させるのは、かれに欠乏があったときに必要となり、その場合、かれの中に
被造物の印が現れ、印によってかれに導かれるのではなく、かれが印自体となってしまう。
かれは他を影響させるもので影響を受けることを超越する。
それは影響されるのを避けることのできる偉力による。

  かれは変化したり消滅したりしない。かれには設定の経過は必要ない。
かれは生まれたと考えられてはならない。ゆえに、かれは子をもたない。
かれは父親ではない。そうでなかったら制限の範囲に入ってしまう。
息子をもつには高貴すぎる御方であり、女と接触するには極めて純潔であられる。
想像力はかれに到達できないので、かれに量を当てはめることはできない。
理解力はかれを思考できないので、かれに形を当てはめることはできない。
感覚はかれを認めることができないので、かれを感じることはできない。
かれを手で触ることはできないので、かれに体をこすりつけることはできない。
かれは別の状態に変わるということがない。
かれはある状態から別の状態に変化することがない。
昼夜がかれを老いさせることはない。光と闇がかれを変えることはない。

かれに制限や限度、最後や終了があると言うことはできない。
かれは物に支配されないので持ち上げられたり下ろされたりしない。
何かがかれを運ぶことはないので、折り曲げられたり、立たされたりしない。
かれは何かの中や外に在られるのではない。
かれは知らせを御運びになるが、舌や声でそうするのではない。
かれは御聞きになるが、耳の穴や聴覚によってではない。
かれは語られるが、言葉を発してではない。
かれは覚えておられるが、記憶されたからではない。
かれは決定されるが、知性を使ってではない。
かれは愛し承認なさるが、心の感傷によってではない。
かれは憎悪されたり御怒りになったりするが苦悩しない。
かれが誰かを創造しようとされるときは、「在れ」と仰せになるだけでそうなるが、
その声が耳で聞こえるのではない。かれの発言は創造なのである。
これ以前にかれのような御方が存在したことはない。
仮にかれのような御方が永遠に存在していたとすれば、それは二番目の神であっただろう。

かれが存在しなかった後で存在するようになったと言うことはできない。
なぜなら、創造されたものの属性がかれに帰されてしまうからである。
そして、被造物とかれの違いがなくなり、かれと創造されたものの区別がなくなってしまう。
そのため創造主と被造物が同等となり、着手者と着手されたものの地位が等しくなってしまう。
かれは誰かの見本に倣うことなく創造なさった。被造物の誰かの助力を得たのではない。    

かれは地上に対してかれの権限と偉大さを顕された。
かれの知識と理解でその内を知っておられる。
かれの崇高さと威信の美徳で地上のすべてに対して偉力を御持ちである。
地上にはかれが求めればかれに反抗するものはなく、またかれに反対してかれを
圧倒させるものはない。足早の被造物がかれから逃げてかれを超えることはない。
かれが困窮して所有者がかれに与えるということはない。
すべてがかれに額突き、かれの偉大さの前では謙虚である。
かれの益または害から逃げるために、かれの権限から他へ逃避することはできない。
かれに匹敵して並ぶものは何もなく、かれに等しいものはない。

かれは地上が存在した後でそれを破壊なさる。
存在したすべてのものが存在しなくなるまで。
しかし、この世が創造された後に消滅することは、地上が最初に考案され形成されたことよりも不思議なことなのではない。 どうしてそのようなことがあろうか? 
大地のすべての動物、鳥、野獣、家畜、放牧の牛、鋭敏な人や聡明な人全員が団結して創造を試みたとて、蚊を生かすことさえできないし、どうやって創造するかもわからない。
彼らの知性は驚嘆し、不思議に思うのである。彼らにその力はなく失敗する。
がっかりして疲れ、負かされたことを知り、己の不能を認める。
それを破壊することすらできないほど自分たちは弱いことにも気付く。

誠に、この世界が消滅した後も依然としてアッラーだけがそのままで在られる。
消滅の後、世界が創造された以前と同じようにかれは存在する。
時間も場所も瞬間も期間もなく。
この時、期間や時間は存在せず、年月や時は消えていく。
唯一の偉力の御方、アッラーのほかには何もない。
すべてのものはかれの許へ帰るのである。
最初に創造されたものには力はない。消滅を回避する力もない。
そのような力があったならば永遠に存在できるのだろうが。
かれが世界のすべてを創造されたときに困難ではなかった。
被造物の創造で疲れることもなかった。
かれは権限を高めるために創造したのではなかった。
損失を恐れたからでも、圧倒的な敵、敵対者に対して援助を得るためでもなかった。
また、かれの支配を強化するための助けのためや、配偶者(かれに並ぶもの)に自慢するためでもなかった。孤独で連れが欲しかったからでもなかった。

創造された後で、かれはそれを破壊なさる。それの維持が心配だからではない。
悦びが増したからでも扱いにくいからでもない。
寿命の長さに疲れてさっさと破壊させるのでもない。
いや、栄光のアッラーはそれを親切に維持され、かれの命令を損なわすことなく持続させ、
かれの偉力で完全なものにされた。そして破壊した後、かれは復活させるが、
かれがそれを必要とするからではない。それに対しての被造物の助けを求めるからでもない。孤独な状態から一緒にいられるようにするためでも、無知と盲目の状態から知識をもって探求させるためでも、不足と困窮を無用と豊富に変えるためでも、恥と卑しさを栄誉に変えるためでもない。




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