『あなたがた信仰する者たちよ、アッラーを畏れ、(言行の)誠実な者と一緒にいなさい』

(クルアーン第9章119節)




 ナフジュル・バラーガ Nafj Al−Balagahah
   ---イマーム・アリー・イブン・アブー・ターリブの説教、書簡、格言集 ---




説教159 

アッラーの称賛 


アッラーの判定は思慮深く、叡智にあふれる。
かれの御悦びとは、御加護と御慈悲のことである。
かれは知識により決定し、忍耐で御許しになる。

おお、アッラーよ! 取り上げては与え、それにより治したり苦しませたりする御方に称賛あれ。 最大の満足と御好みになる称賛を。貴方の御前で最も威厳ある称賛を。
貴方が創造なさった全被造物が満たし、貴方が望まれるところに達する称賛を。
貴方に隠されず、終わりのない称賛を。永続が消えることのない貴方への称賛を。



アッラーの偉大さ


我々は貴方の偉大さの実体を知らない。
永遠の御方であり、すべての存続により自足なさるということを除いては。
貴方はまどろみや睡眠に圧倒されず、視力は貴方に到達できず、視覚は貴方を把握することができない。 貴方は眼を見、年を数え給う。額と足をつかまれる(人びとを僕とする)。
我々が貴方の被造物を見て不思議に思うのは貴方の偉力のためで、貴方の偉大なる権限によってそれを描写する。我々の視力では不十分で、我々の知性で到達できず、我々との間の未知の幕で我々に隠されていることは、さらに偉大である。

貴方の玉座がいかにして確立され、被造物がいかにして創造され、天空の空気がいかにして立ち込められ、波の上に大地を広げられたかを知るために、心を解放して思考する者は、眼が疲れ、知性が負かされ、耳が熱望し、取りとめもなく思考する。



同じ説教より
アッラーへの希望と畏怖


自分ではアッラーに希望をもつと思っていてそう主張するが、偉大なるアッラーにかけて、
その人は嘘を言っている。彼の行為にそれが現れていない。望みをもつ者は行為でわかる。
あらゆる希望はそうなのだが、アッラーへの希望の場合は不純であればそうではない。
あらゆる恐れは認められるが、アッラーへの恐れの場合は偽りであるならばそうではない。
アッラーに大きなことを希望するが、人には小さなことを望む。
人に対してはそのような考慮があるのにアッラーにはそうではない。
称賛する栄光のアッラーに対してどうしたことか? 
かれの被造物よりも考慮されていないのである。
あなた方はアッラーへの希望が誤っていないかと恐れたことはないのか? 
アッラーを希望の中心とみなさないのか?
同様に、人が人を恐れるのはその人に対して恐怖を抱くからであるが、同じ恐怖をアッラーには抱かない。つまり、彼は人に対する恐怖をいつでも使える貨幣にしたのだが、創造主に対する恐れは単なる引延ばしか約束でしかない。目に現世が重要に映り、心に大きく占められた者には、これが事実なのである。その人はアッラーよりそれを好み、心を傾け、愛好者となる。



聖預言者の例


誠に、神の使徒―彼とその家族の上に神の祝福と平安あれ―はあなた方にとっては十分の
模範であり、世の中の不道徳、欠陥、多くの恥と悪に関する証拠である。
彼のためにそれの脇は縮まっているからである。
だが、その横腹は他の人たちのために開いた。
(この世の)ミルクを奪われ、その飾りから顔を背ける。



ムーサーの例


あなた方が望むなら二番目の例を示そう。アッラーの対話者、ムーサー(彼の上に平安あれ)は言った。「主よ、あなたがわたしに御授けになる、何か善いものが欲しいのです」(聖クルアーン28章24節)彼が求めたのは糧だけであった。彼の痩せこけた腹の皮膚をみれば、大地に生える植物を食事にしていたのがわかるほどだった。



ダーウードの例


あなた方が望むなら三番目の例を示そう。ダーウード(彼の上に平安あれ)は賛美歌の保持者、天国の人びとの朗誦者だった。彼は自身の手でナツメヤシの葉で籠を作っていた。
教友にはこう言っていた。「あなた方の誰がこれを買ってわたしを助けてくれますか?」と。 
彼は法外な値の麦パンを買って食べていた。



イーサーの例


あなた方が望むなら四番目の例を示そう。マリヤムの息子イーサー(彼の上に平安あれ)は
石を枕にし、着ている服は粗末で、食事は粗雑なものだった。彼の薬味は飢餓、夜の灯火は
月であった。冬の間の屋根は東と西を向いた大地の広がりだけだった。果物と花は家畜のために生えたもののみであった。彼には魅惑する妻も、悲しんでくれる息子もいなかった。
逸脱させる富も、卑しめる貪欲もなかった。両足が彼の運搬者、両手が彼の召使だった。



聖預言者の模範に従うこと


あなた方の預言者、純潔な方、汚れなき方に従いなさい。彼とその家族の上に神の祝福あれ。 彼は従者のための模範であり、慰めを求める者の慰めである。
アッラーに最も愛される人とは、かれの預言者に従う者、預言者の足跡を辿る者である。
彼は現世のものを少しも自分のものにはしなかった。それを凝視しなかった。
この世の人びとの中では誰よりも飽満でなく、胃袋は空だった。
彼には世界を提供されていたのに受け取るのを拒否した。
栄光のアッラーが嫌われることを彼も嫌った。
アッラーが低きものとされたことは彼も低きものとした。
アッラーが小さきものとされたことは彼も小さきものとした。
アッラーとその預言者が嫌ったことを愛し、小さきものとされたことを偉大とするのは、アッラーから孤立し、かれの命令に背くに十分である。

預言者は地面に座って食べていたものだ。奴隷のように座って。彼は自分の手で靴を修繕し、服を繕った。 鞍のない驢馬に乗り、後ろに誰かを乗せた。
彼の扉に絵のついた窓掛けが使われていると、妻の一人に言ったものである。
「おお、誰某よ、わたしの視界からこれを取り除きなさい。これを見たら、この世の魅力を思い出してしまうので」このように、彼は心の中から現世を取り除き、思い出さないように記憶を破壊した。現世の魅力を視界から隠すことを好まれたのは、立派な服を手にしないため、この世を留まる場としてみなさないため、この世の生活に希望を抱かないためだった。
それで彼は心の中から取り去り、目に見えないようにしていたのである。
これと同じように、何かを嫌う者はそれを見るのを嫌い、またそれについて聞くのを嫌うように
しなければならない。

誠に、神の使徒には、あなた方にこの世の悪と欠陥を知らせるもののすべてがある。
彼は最高の教友と一緒にお腹をすかせていた。
彼はこの世に極めて近くにいたのに、この世の魅力は遠くにあった。
さて、この結果として、アッラーはムハンマド―彼とその家族の上に神の祝福と平安あれ―を讃えられたのか、退けられたのか。
自分で考えて理解されよ。 退けられたと言う者は確かに嘘をついており、大変な不実を犯している。彼を讃えたと言う者が知らなければならぬことは、 彼のためにこの世の益を御広げになったとき、他の者を退け、全人類の中でアッラーに最も近い預言者から彼らを遠のかせたということである。

したがって、あなた方はアッラーの預言者に従い、彼の足跡を辿り、彼の入口から入らなければならない。そうしないなら破滅から安全ではいられない。
アッラーはムハンマド―彼とその家族の上に神の祝福と平安あれ―を審判の日の印とし、天国の吉報の伝達者とし、懲罰の警告者とされたのである。預言者は腹をすかせてこの世を去ったが、安心して来世に入られた。彼はアッラーの呼びかけに応じて去るまで、(家を建てるために)一つの石を別の石に積むことはしなかった。アッラーの祝福はなんと偉大であろう。
アッラーは預言者を我々が従うための父祖とされ、我々が後を従うための指導者とすることで我々を祝福なさったのである。



彼自身の例


アッラーにかけて。わたしは自分の衣にいくつも継ぎを当てたので、継ぎを当てる人の恥ずかしさを感じる。 誰かがそれを捨てないのかと言ったので、わたしは「離れなさい」と言った。
人びとが夜の旅を大いにほめるのは朝だけなのである。




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