『あなたがた信仰する者たちよ、アッラーを畏れ、(言行の)誠実な者と一緒にいなさい』

(クルアーン第9章119節)




 ナフジュル・バラーガ Nafj Al−Balagahah
   ---イマーム・アリー・イブン・アブー・ターリブの説教、書簡、格言集 ---




説教215 

スィッフィーンの戦いでの説教
支配者と被支配者の相互の権利


栄光のアッラーはあなた方の諸事に対してわたしを配され、あなた方に対するわたしの権利を御創りになった。わたしがあなた方に対して有するように、あなた方もまたわたしに対して権利を有する。権利の説明に関しては極めて広範囲であるが、行為の公正さに関しては極めて限られている。それは彼自身に対しても生ずるものでない限り、誰にでも当然生ずるものではない。権利はその人への恩恵として生ずるものでない限り、その人に対して当然生ずるものではない。その人自身に対して生ずる権利のない、その人だけに恩恵を与えて生ずる権利があるとすれば、被造物に対するかれの偉力およびすべての神の法に行き渡る公正さという美徳によって、それは栄光のアッラーのみのためにあり、被造物のためにあるのではない。当然、栄光のアッラーは被造物に対して権利を創られた。被造物はかれを信仰する義務があり、かれは被造物に報酬を与える義務を担われたのである。この義務は、かれの恩恵およびかれに可能である寛大さの印として、その報酬の数倍に等しいものである。

それから栄光のアッラーはかれの権利に基づいて、ある人びとに他者に対する権利を定められた。人びとが互いに等しくあるために権利を御創りになったのである。これらの権利の中には別の権利を生むものがある。ある権利には別の権利がないままに当然生ずることのできないものがある。栄光のアッラーが義務として定めた最高の権利は、被支配者に対しての支配者の権利ならびに支配者に対しての被支配者の権利である。これは栄光のアッラーが両者に定めた義務である。かれはその義務を相互の献身の基盤とさせ、彼らの宗教のための栄誉とされた。そのために、支配者が健全でない限り、被支配者は栄えることが出来ず、被支配者が忠実でない限り、支配者は健全であることが出来ない。

被支配者が支配者の権利を満たし、支配者が被支配者の権利を満たすなら、その権利は彼らの間で栄誉の地位を獲得し、信仰の道は確立され、正義の印は定まり、スンナは容認される。

この方法で時が改善し、政府の継続が期待され、敵の目的に挫折感を与える。しかし、被支配者が支配者に対して勢力を持つならば、あるいは支配者が被支配者を抑圧するならば、そのときは、あらゆる言葉に相違が生じ、抑圧の印が現れ、悪行が信仰に侵入し、スンナの道は見捨てられる。そして、欲望に従って行動するようになり、信仰の命令は放棄され、精神の病が増加し、偉大な権利ですら躊躇なく無視され、大罪を犯すのも躊躇わない。このような状況の中では、高潔な人が屈辱を与えられ、堕落した人が敬われる。栄光のアッラーからの、深刻な懲罰が人びとに与えられる。

したがって、あなた方は(義務の遂行において)互いに助言し、協力しなければならない。
アッラーの御満悦をどんなに希っても、どんなに努力しても、栄光のアッラーへの服従の義務を果たすことはできない。本当にそれはアッラーのおかげだからである。人びとが義務を負わされたアッラーの権利であるから、能力の限りを尽くして忠告し合い、彼らの間で真実を確立するために協力しなければならない。真実に関してどんなに地位が高くとも、また信仰において卓越していようとも、アッラーに課された義務に関して協力する者より優れる者はいない。繰り返す。
他者からどんなに慎ましいと思われていても、人の目に謙虚に映っていても、このことでは協力するにも協力を得るにも低すぎるほどである。

アミール・アル=ムウミニーンの教友の一人が彼を強く称賛し、自分が彼によく服従していることを長々と述べたとき、アミール・アル=ムウミニーンが言った。

心の中でアッラーの栄光を高くみなし、アッラーの地位が崇高であると信じるならば、これらのことの偉大さのために、その他のすべては重要でないと考えるのがその者の権利である。
アッラーから極めて寛大な恵みを授かり、かれの恩恵を親切に受けた者にはさらに大きな義務がある。なぜなら、誰かへのアッラーの恵みは、アッラーがその者に有する権利の増大なくしては増えないからである。

高徳な人びとの見解では、支配者の最悪の立場とは、支配者が栄光を愛し、支配者のなす仕事はうぬぼれが基盤にあると思われてしまうことなのである。わたしが褒め称えられたり賛辞を聞いたりするのを好むとあなた方に思われるのを、わたしは本当に嫌う。アッラーの御慈悲により、わたしはそうではない。仮にわたしがこのように言われるのを好んでいたとしても、アッラーにより権利のある、偉大さと気高さを受け入れるより、栄光のアッラーに服従してそれを放棄しただろう。一般に、人びとは良い行為をした後で褒められると喜ぶものだが、アッラーとあなた方に対する義務を務めたことでわたしを称賛してはならない。わたしは自分が果たしていない義務と避けることのできない指示を出すことに関して恐れているからである。暴君に話しかけるような態度でわたしに話しかけてはならない。

激しい感情の人びとを避けるようにわたしを避けるな。ご機嫌とりをしてわたしに会うな。
本当のことを告げてわたしがそれを悪く理解するのではないかと思うな。なぜなら真実を告げられ、或いは事実をそのまま目の前で示されて嫌悪する者は、それに従った行為をもっと難しく感じるからである。したがって、真実を語ることや公正なことの指摘を慎んではならない。わたしは自分が超越していて罪を犯すことがないとは思わないのだから。わたしは自身の行為に過ちを犯すのをまぬがれないが、アッラーが(過ちを犯さないように)助けてくださる。そのことではかれはわたしよりも偉力を御持ちである。誠に、わたしとあなた方はアッラーに所有された僕である。かれの他に並ぶ主はない。かれは我々を所有する御方であり、我々は自身を所有しない。かれは我々のいた場所から我々にとっての幸福(成功)に我々を連れて行かれた。我々の逸脱を導きに変え、盲目の後に知性(理解力・知識)を与えてくださったのである。




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