『あなたがた信仰する者たちよ、アッラーを畏れ、(言行の)誠実な者と一緒にいなさい』

(クルアーン第9章119節)




 ナフジュル・バラーガ Nafj Al−Balagahah
   ---イマーム・アリー・イブン・アブー・ターリブの説教、書簡、格言集 ---




説教198 

教友への礼拝に関しての忠告 


祈りによってあなた方自身に誓い、ぐらついてはらない。出来る限り礼拝をして、アッラーに
近づきなさい。
「本当に礼拝には、信者に対し定められた時刻の掟がある(聖クルアーン4章103節)」からである。 地獄の人びとが問われたときの返答を聞いたことがあるか。「『何が、あなたがたを烈火の中に導いたのですか。』と。 かれらは答えて言う。『わたしたちは礼拝を捧げていませんでした。』(聖クルアーン74章42−43節)」
誠に、礼拝は落ちていく木の葉のように、罪を無くならせる。そして、牛の首から綱を外すように、罪を取り除く。神の使徒―彼とその子孫の上に神の祝福と平安あれ―は、それを好まれた。入浴を日に五回する者の入り口に置いてある風呂桶のように。彼に少しでも垢が残ろうか?

所有物の装飾や子供の冷ややかな眼差しにそっぽを向かれることのない、信ずる者は、
その義務を認める。栄光のアッラーは仰せになった。

人びとは、交易や商品に惑わされないで、アッラーを念じ、礼拝の務めを守り、定めの喜捨に
怠りなく……(聖クルアーン24章37節)

天国を保障された後でさえ、神の使徒―彼とその子孫の上に神の祝福と平安あれ―は、
礼拝に励まれた。栄光のアッラーがこう命じられたからである。

礼拝を命じ、そして(あなたも)それを耐えなさい……
(聖クルアーン20章132節)

 それで聖預言者は従者に礼拝を命じ、自身もそれに励まれたのである。



イスラームの喜捨(ザカート)について


次に、礼拝に並んでイスラームの人びとが捧げる犠牲としてザカートが定められた。
精神を浄化させる方法としてそれを差し出す者にとって、それは浄化作用であり、
火獄から身を守る盾なのである。
したがって、それを差し出した者は行為の後で執着したり深く後悔したりしてはならない。
心の浄化を意図せずに差し出した者にとってそれは、当然与えるものではなくむしろ期待なのである。その人は確かにスンナに無知である。報酬は許されない。行為は役に立たず、極度の悔悟をする。



信託を引き受けること


次に、信託を引き受けるということに関してであるが、これに注意を払わない者は失望するだろう。それは強力な諸天、広大な大地、聳える山々の前に置かれたが、それより強く、広大で、高い者はいなかった。高さ、広さ、強さ、力が理由で接近不可能なものがあるとすれば、それらであっただろう。だが、それらは(信託を担うのを失敗したときの)悪い結果を恐れ、(それらよりも)弱い者がはっきり理解しなかったことに気づいた。これは人間のことである。

……本当に人間は不義でありかつ無知である。(聖クルアーン33章72節)

確かに、昼夜、人びとが為すことで至大至高のアッラーに隠されたことは何もない。
かれはすべての詳細を御存知であられ、かれの知識はそのすべてにわたる。
あなた方の体が証人であり、体の臓器は(自身に対する)軍隊であり、心は(自身の罪を監視するための)目となってかれに奉仕し、孤独はかれに明らかである。




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