『あなたがた信仰する者たちよ、アッラーを畏れ、(言行の)誠実な者と一緒にいなさい』

(クルアーン第9章119節)




 ナフジュル・バラーガ Nafj Al−Balagahah
   ---イマーム・アリー・イブン・アブー・ターリブの説教、書簡、格言集 ---




説教67

アミール・アル=ムウミニーンがムハンマド・イブン・アビー・バクル〈注〉
エジプト知事に任命し、彼が殺されたときの言葉。


わたしはハーシム・イブン・ウトバをエジプトに送るつもりでいた。もしそうしていたなら、
彼は敵に道を譲っていたか、時間を与えていただろう。ムハンマド・イブン・アビー・バクルを非難して言っているのではない。わたしは彼を育て、愛した。



:アブー・バクルの死後、アミール・アル=ムウミニーンはムハンマド・イブン・アビー・バクルの母アスマ・ビント・ウマイスと結婚した。その結果、ムハンマドはアミール・アル=ムウミニーンの許で育てられ、彼の作法や習慣を吸収した。アミール・アル=ムウミニーンもムハンマドを大変愛して我が子のようにみなし、「ムハンマドはアブー・バクルからのわたしの息子」と言っていた。ムハンマドは(預言者の)最後の巡礼の行路で誕生し、ヒジュラ暦38年に殉教者として世を去った。享年28歳であった。

アミール・アル=ムウミニーンはカリフに就任時、カイス・イブン・サァド・イブン・ウバードをエジプト知事に選んでいたのだが、状況の変化で解任し、代わりにムハンマド・イブン・アビー・バクルに任じて派遣した。カイスはウスマーンの一団には深刻な処置はしないとの方針だったのだが、ムハンマドの見解は異なっていた。一月が経過して、彼が自分に服従しないならエジプト内での存在は不可能であると言い渡したために、人びとは対抗して組織化し、密かに策動した。しかし、その動きはすぐに表沙汰となった。仲裁の後、今度は復讐を宣伝文句に問題を起こすようになった。こうしてエジプト内の空気は汚染された。アミール・アル=ムウミニーンは状態が悪化したのを知り、反乱分子を制して政治の悪化を防ぐためにマーリク・イブン・アル=ハーリス・アル=アシュタルを知事に任じるが、ウマイヤの邪悪な了見から逃げることができずに任地に赴任する途中で毒殺された。それでエジプト知事の地位はムハンマド・イブン・アビー・バクルに渡った。

仲裁に関連するアムル・イブン・アル=アースの行いがムアーウィヤに自身の約束を思い出させた。その結果、エジプトを攻めるために6千人の兵士を与えた。ムハンマド・イブン・アビー・バクルは敵の勢力が向かって来ていることを知り、アミール・アル=ムウミニーンに援助を求めた。アミール・アル=ムウミニーンはすぐに援軍を召集して派遣するが、ムハンマドにも自分の軍を動員させるように返答していた。そこでムハンマドは4千人を動員して二部隊に分け、キナーナ・イブン・ビシュル・アッ・トゥジビーを他方の部隊の司令官にして敵の動向を探らせるために前進させた。野営中、敵のさまざまな一団が攻撃を開始してきたが、勇敢に対峙した。
ついにムアーウィヤ・イブン・フダイジュ・アッ・サクーニ・アル=キンディーが猛烈な攻撃に出た。人びとは敵の剣から踵を返すことなく、不動の戦いを続けて殉教した。この敗北でムハンマド・イブン・アビー・バクルの従者は恐れをなして彼を見捨てて逃げ出し、一人になったムハンマドは人気のない場所に逃げた。敵がそのことを聞きつけてムハンマドの居場所をつきとめると、ムハンマドは喉の渇きで死にそうになっていた。水を求めても残忍な人びとは水を与えるのを拒み、虐殺し、死んだロバの腹部に彼の死体をいれて燃やした。

マーリク・イブン・カァブ・アル=アルハビーは2千人の兵士を率いてすでにクーファを出発していたが、到着するまでにエジプトはすでに敵の占領下にあった。




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