『あなたがた信仰する者たちよ、アッラーを畏れ、(言行の)誠実な者と一緒にいなさい』

(クルアーン第9章119節)




 ナフジュル・バラーガ Nafj Al−Balagahah
   ---イマーム・アリー・イブン・アブー・ターリブの説教、書簡、格言集 ---




説教11

ジャマルの戦いでアミール・アル=ムウミニーンが軍旗を 息子ムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤに渡したときの説教〈注〉


山々が動いても、あなた方は自分の位置から動いてはならない。歯を食いしばり、アッラーのためにあなた方の頭を役立てなさい。(アッラーのために戦い、身を捧げよ)しっかりと地に足をつけて。一番遠くにいる敵に目をやって(大勢いる敵の数には)目を閉じよ。援助は栄光のアッラーからのみであることを確信せよ。




〈注〉ムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤはアミール・アル=ムウミニーンの息子だったが母を継いでイブン・ハナフィーヤと呼んだ。母親の名はハウラ・ビント・ジャーファル。
バヌ・ハニーファの部族名からハナフィーヤとして知られていた。ヤマーマ族がザカート支払いを拒んで背信したので殺害された際、女たちは捕虜の奴隷としてメディーナへ連行された。
彼女もその一人だった。そのことを知った同族の者がアミール・アル=ムウミニーンの許にやって来て一族の名誉のために奴隷の身から解放してほしいと頼んだので、アミール・アル=ムウミニーンは彼女を買って解放し、婚姻を結んで生まれた子供がムハンマドであった。

大多数の歴史家が彼の名字をアブー・アル=カーシムと記録したために、アル=イスティアーブの著者は、アブー・ラシード・イブン・ハフス・アッズフリーの見解を述べて(預言者の)教友の息子で名前がムハンマドで姓がアブー・アル=カーシムは次の四名であるとした。
(1)ムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤ(2)ムハンマド・イブン・アブー・バクル(3)ムハンマド・イブン・タルハ(4)ムハンマド・イブン・サァこの後にムハンマド・イブン・タルハの姓名は預言者が名付けたものだと述べている。

アル=ワーキディーによれば、ムハンマド・イブン・アブー・バクルの姓はアーイシャの推奨だったとある。だがムハンマド・イブン・タルハを預言者が名付けたというのは明らかに正確ではない。預言者はアミール・アル=ムウミニーンの息子の一人にその名前を確保していた。
その息子とはムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤである。預言者は自分が去った後に生まれてくる息子のために自分の名を授けるので、ムハンマドとアブー・アル=カーシムの名を組み合わせたものを他の誰にも名付けてはならないとアリーに告げていたことが報告されている。

このような見解があるのだが、イブン・タルハの姓がアブー・スライマーンだという記録がある。またムハンマド・イブン・アブー・バクルについては、メディーナの神学者の中にカーシムという名の息子がいたというのが根拠だが、そうであるならアーイシャの推奨という説明はつじつまが合わない。もしそうだったとしたら、アミール・アル=ムウミニーンに育てられたムハンマド・イブン・アブー・バクルが容認していただろうか。預言者の言葉が彼に知らされていなかったということはなかっただろう。さらには、大多数が彼の姓をアブー・アブド・アッ・ラフマーンとして記録していたことから、アブー・ラシードの見解は弱い。

イブン・アル=ハナフィーヤに関しても、アブー・アル=カーシムの姓は証明されていない。
イブン・ハリカーン(『ワファヤート・アル=アッヤーン』4巻170ページ)は、アミール・アル=ムウミニーンの息子で預言者のこの名前を授かったのはムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤであるとするが、アラーマ・アル=マーマカーニー(『タンキフ・アル=マカール』3巻1部112頁)がこのように著述している。
「この伝承がムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤに当てはまるとすることについて、イブン・ハリカーンは混乱している。預言者が特別に名前を授けたとするアミール・アル=ムウミニーンの息子とは、再臨を望まれる最後のイマームのことであり、ムハンマド・イブン・ハナフィーヤではない。預言者の真の意図を理解していないスンナ派の一部の解釈がそうさせたのである」

とはいえムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤは敬虔さにおいては優れ、信仰と禁欲においては卓越し、知識と功績においては極めて高い位置にあり、勇敢さにおいては父親の継承者であった。駱駝の戦いとスィッフィイーンの戦いではアラブ人の間で、最後に生き残った戦士でさえその名を耳にすると武者震いしたとの印象をもつほど活躍していた。アミール・アル=ムウミニーンも彼の勇敢な行為を誇りにしていた。敵との対峙では常に彼を先頭に立たせていた。シャイフ・アル=バハッイは『アル=カシュクール』に記している。アリー・イブン・アビー・ターリブは戦いの際には彼と並んで「彼はわが息子、この二人は預言者の息子である」と言ってハサンとフセインを前に立たせることはしなかった。それでハワーリジュ派の者がイブン・アル=ハナフィーヤに向かって、アリーは戦火でイブン・アル=ハナフィーヤを突き飛ばすがハサンとフセインは救出する、と言ったので、自分は右手でハサンとフセインはアリーの二つの目であり、アリーは右手で目を守るのだと子応えた。だがアラーマ・アル=マーマカーニーは、これはイブン・アル=ハナフィーヤ本人の言葉ではなくアミール・アル=ムウミニーンの言葉であると述べている。スィッフィーンの戦いの時にムハンマド(イブン・アル=ハナフィーヤ)が不満げにアミール・アル=ムウミニーンに話したところ、「おまえはわたしの右手であり、彼らはわたしの両目である。両目は手が守ってくれる」と返答したという。

ムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤは2代目カリフ時代に誕生し、アブドル・マーリク・イブン・マルワーンのカリフ時代に亡くなったとされている。享年65歳だった。ヒジュラ暦80年もしくは81年に逝去したという記録もある。死亡場所にも相違があり、メディーナ、アイラ、ターイフだといわれている。




00889.gif(1103 byte)  説教12









Designed by CSS.Design Sample