『あなたがた信仰する者たちよ、アッラーを畏れ、(言行の)誠実な者と一緒にいなさい』

(クルアーン第9章119節)






著者 サイード・ムハンマド・リズビ


1章 シーアの起源  政治か宗教か

1. 序文

スンナ派の論争的な書物にはスンニのイスラームが「正統なイスラーム」で、シーア派はイスラームを内から腐敗させようとして始まった「異端宗派」だと主張する。 この考え方は、シーア派の始まりは政治的動きで後から宗教的強調がなされたように示している。こうした反シーアの態度は過去の書き手に限られたことではなく、現代のスンナ派の著者の中にも同様の見解を持つ者がいる。
例えば、インド人のアブル・ハッサン・アリー・ナドウィ(Abul Hasan 'Ali Nadwi) およびマンズール・アフマド・ヌッマーニ(Manzur Ahmad Nu`mani)(両者共にインド人)、 パキスタン人のイフサーン・イラーヒ・ザヒル(Ihsan Ilahi Zahir)、中東出身のムヒッブッドゥ・ディン・アル=カティブ(Muhibbu `d-Din al-Khatib) およびムーサ・ジャール・アラー(Musa Jar Allah)たちがいる。〈注1
このような神学校を卒業し、いわゆるアカデミアと呼ばれる学問の世界と無関係な人たちだけに限らない。 エジプトのアフマド・アミーン(Ahmad Amin)やパキスタンのファズルル・ラフマン(Fazlur Rahman)はこのグループに属する。

例えば、アフマド・アミーンは次のように書いている。
「真実はこうである。イスラームを憎み、或いは、羨望する者たちがイスラームを破壊させようとする。そういう人々にとっての避難所がシーアなのである。だから、ユダヤ教、キリスト教、ゾロアスター教の教えをイスラームに持ち込もうとする人たちにとってシーアの教えは、非常に邪悪な目的を達成するための隠れ家なのだ」〈注2

ファズルル・ラフマンは興味深い人物である。プンジャブ大学およびオックスフォード大学を卒業し、ダルハム大学とマックギール大学で教鞭をとった後、1968年までパキスタンのイスラーム研究中央機関の理事をしていた。 ところがクルアーン解釈の騒動をめぐってこの地位を失った。その後、アメリカ合衆国に移民し、シカゴ大学のイスラーム学科の教授となった。彼の有名な著書『イスラーム』は、西洋の大学学部生用の教科書として使用されている。

ファズルル・ラフマン教授はシーア派の起源について以下のように解釈している。
「アリーが暗殺された後、クファのアリーの従者(シーア派)は不幸をもたらすカリフの家にカリフを戻せよと迫った。アリーの子孫を正当化したい人々の主張がシーアの政治的教義の始まりである・・・」 「従って、初期のイスラームの歴史において、シーア派がさまざまな社会的或いは政治的不満による勢力の隠れ場所となっていたことがわかる・・・しかし、アラブ人から非アラブ人の手に移り、本来の政治的動機は、神学上の独自の教義をもつ宗派へと発展していった・・・ こうしてオリエンタルの神に関する旧式の信仰が浸透し、新たな形而上学の背景、キリスト教のグノーシス主義の新プラトン的思想がシーアの教義に取り込まれたのである」〈注3
さらに彼はこう述べている。「こうして秘密宗派が形成され、シーア派が政治的な追放者の目的を充たし、その衣の下で精神的に追放された者たちが古い教えをイスラームに紹介し始めたのである」 〈注4
このような背景がある中、私が本当に理解に苦しむのは、シーア派の学識者がシーア派の起源について同様の考え方を記していることである。
「イマーマト【訳注:指導者性】の初期の議論のほとんどは、まず政治的な形であった が、しだいに議論は救済という宗教的意味合いが包まれるようになった。 これはすべてのイスラームの概念にあてはまる。なぜならば宗教的現象としたイスラームは政治的実体としてのイスラームの後にくるものだったからである」〈注5

「656年の初期内乱の日から、ムスリムの中には政治的な意味での指導者性に疑問を持っただけでなく、それに宗教的色合いを含ませた」〈注6

アリー支持者の指導者を主張したクファのシーア派従者について学識者は次のように書いている。
「アリー従者の指導者を支持することは少なくとも初期には全く宗教的な土台はなかった・・・アリー従者の指導者の主張は、預言者に帰すスンナを宗教的な言葉で誇張した教えとなり、徐々に、シーア派の完成した教義のかなめであるイマーマトという基本的教義の一部となったのである」〈注7
支配者に対して反乱を起こした宗教指導者の失敗と殉教を説明した後、著者はこう記している。
「これがアリー支持者のイマームの役割を宗教的に強調する始まりであった・・・」 〈注8


注1. こういった著者はサラーフィやワハービを代理しており、彼らの反シーアの書物は世界中に配布されている。 それは特定の中東諸国のオイルマネーが貢献している。特にスンニの大衆がシーア派ウラマーによるイラン革命に影響され始めてからのことである。

注2.『ファジュル・ル・イスラーム』33ページに引用され、ムハンマド・フセインがこれを否定している。 Fajru `l-Islam, Kashiful `l-Ghita, Aslu `sh-Shi`a wa Usuluha (Qum:Mu`assasa al-Imam Ali, 1415) p. 140, 142. また、後者の英訳『シーアの起源と信仰』(イスラーム神学校、カラチ、1982年)を参考。

注3.『イスラーム』 ファズルル・ラフマン シカゴ大学出版 シカゴ1976年 171-172ページ

注4.同上 173ページ

注5.『イスラームのメシヤ 十二人のイマームによるマフディーの考え方』4ページ
アブドゥラジズ・アブドゥルフセイン・サチェディナ ニューヨーク州大学アルバニー 1981年 Abdulaziz Abdulhussein Ssachedina, Islamic Messianism:The Idea of mahdi in Twelver Shi`ism, (Albany: State University of NewYork, 1981) サチェディナ博士はアリガルフ(インド)、マシャード(イラン)、トロントの大学で学んだ。本書は1976年にトロントの大学で博士号論文として書いたものを改訂したものである。

注6. 同上5ページ

注7. 同上6ページ

注8. 同上18ページ






2. イスラームの始まり

シーア派だけでなくスンナ派もイスラームの主な教えは人間の精神面だけに限られておらず、社会の政治的な面も含むものであると信じる。 イスラームの教えに政治的理想が含まれているからといってイスラームが基本的に政治的な動きから始まったことを意味しない。

預言者(S)の人生をみてみるがよい。預言者の宣教はメッカで始まった。ヒジュラ前の預言者の行動で政治運動的なものはみられない。 それは根本的に宗教運動であった。ヒジュラの後、メディナの大多数の人々がイスラームを受け入れたときに、イスラームの社会的秩序を実践させる機会がやってきた。 そうして預言者ムハンマド(S)は社会の政治的指導者としての役割も担ったのである。

彼が他の部族との協定を結んだとき、彼は王や皇帝に大使を遣わし、兵を組織してムスリム勢力を率いた。判断を下し、役人や執行人、司令官、裁判官を指名した。また、税金を収集し、分配もした。 こういったことがあったわけだが、イスラームは宗教運動として始まり、後に社会の政治的な面が含まれていったのである。 従って、「宗教的現象としたイスラームは政治的実体としてのイスラームの後にくるものだった」との主張は歴史的に誤った見方である。






3. シーアの起源

シーアの起源はイスラームの起源と離すことはできない。なぜなら預言者自身がその種を蒔いて、メッカで預言者が初めてイスラームを公共の場で呼びかけたとき、ウィサーヤ(継承人)とキラーファ(カリフ)をアリー・イブン・アビー・ターリブとすることを宣言していたからである。

イスラームが始まったのは、預言者ムハンマド(彼と彼の血族の上に平安あれ)が四十歳のときであった。最初、宣教は密かになされていた。 イスラームが到来して三年後、預言者は公にイスラームの教えを宣言することを命じられた。このとき至大なるアッラーは「あなたの近親者に警告しなさい。(26:214)」を啓示された。 この節が啓示されたとき、預言者は「家族への呼びかけ」〔Da`wat adu 'l-Ashira〕として歴史上知られている晩餐会を開いた。ハーシム家から四十名を招き、アリー・イブン・アビ−・ターリブに準備させた。 食べ物や飲み物でもてなした後、預言者は彼らにイスラームのことを伝えたかったのだが、アブー・ラハブが預言者の出鼻をくじいて「この晩餐会の主催者はあなた方にとっくに魔術をかけています」と言った。 預言者がイスラームを伝える前に客は去ってしまった。それで翌日、預言者は再び彼らを招待した。食事の後、彼は皆に向かって言った。「アブドゥ・ル・ムッタリーブの息子たちよ!アッラーに誓って。 アラブ部族の中で私があなた方に運んできたものより良いものを自分の部族に運んできた者を私は知らない。私は現世と来世の良いものを持ってきた。 私は主からあなた方に呼びかけよと命じられた。 だからこのことで私の兄弟(akhhi)、私の継承人(wasiyyi)、私のカリフ(khalifati)となる者はあなた方の中の誰がいるのか?」

これが、公の場で自分を神の使徒、預言者として受け入れよ、と預言者が親類に呼びかけた最初の出来事であった。 預言者はまた、自分を支持してくる者を、akhhi wa wasiyyi wa khalifati (私の兄弟、私の継承人、私のカリフ)という言葉で述べた。 しかし、誰もこれに返事をしなかったのだが、その中で一番若かったアリーだけがこれに答えて「おお、神の預言者よ、私はあなたを助けます」と言った。 預言者はアリーの首の後ろに自分の手を置いて言った。「Inna hadha akhhi wa wasiyyi wa khalifati fikum, fasma`u lahu wa ati`u (確かにこれはあなた方の中の私の兄弟、私の継承人、私のカリフである。 だから彼に従いなさい)」

これがはっきりと述べた最初の宣言であった。なぜなら聴衆者はアリーを指名したことを明確に理解していたからである。彼らの中のアブー・ラハブは、アブ・ターリブに、ムハンマドはあなたにあなたの甥に従えと命じたぞ、と冗談さえ言っている。このことが少なくとも、アリーの指名が単なる暗示ではなく、明瞭な表現であったことを示している。 その後、預言者は様々な場所で、アフルルバイトを愛し彼らに導きを求めるよう強調し、アフルルバイトが神とその使徒の御目に特別な地位を持つことに注意を向けさせ た。そして最後に預言者は、お亡くなりになるちょうど二ヶ月前、ガディール・クンムでアリーをムスリムの指導者としてはっきりとこう述べて任命なさったのである。 「私をマスターとする者は誰でもこのアリーがマスターである」
また、「私はあなた方に二つの重大なものを残す。この二つにすがる限り、あなた方は決して道を迷うことはない。神の書と私の子孫」〈注10

これらの出来事については数多くの議論と書物があるので、読者は次に挙げる文献(英訳)を参考になさるとよかろう。

* 『アル=ウィラヤに関する疑問を調査する』
サイード・ムハンマド・バキル・アッサドル、P.ハセルティン訳
(この論文はインドで『シーア−イスラームの自然産物』という適切な題目で翻訳されたものである)
A Study on the Question of Al-Wilaya, Sayyid Muhammad Baqir as-Sadr(Dr. P. Haseltine)

* 『シーアの起源とその原則』ムハンマド・フセイン・カシフル・ギタ
The Origin of Shi`a and its Principles, Muhannmad Husayn Kashiful Ghita

* 『イマーマト−預言者の代理』サッイード・サイード・アフタル・リズビ
Imammate: the Vicegerency of the Prophet, Sayyid Saeed Akhtar Rizvi

* 『シーア派イスラームの起源と初期の発展』S.フセインM.ジャファリ
Origins and Early Development of Shi`a Islam, S. Hussain M. Jafri

* 「シーアの意味と起源」『正しき道』(1巻3号1993年1月-3月)
サッイード・サイード・アフタル・リズビ
"The Meaning & Origin of Shi`ism" The Right Path Vol. 1 (Jan-Mar 1993) #3,Sayyid Saeed Akhtar Rizvi〈注11

以上の書籍を読んだ人には、イスラームとシーアが同じ時期に始まったことがわかろう。イスラームと同様にシーアが宗教運動であり、それに政治的・社会的な面も含まれていたことを認識するだろう。

ジャファリ博士は次のように書いている。
「イスラームの宗教的教えと政治的構造が互いに向かっている様々な関係を分析してみると、アリーの支持者の主張と教義的傾向が政治的ではなく、むしろ宗教的な側面にある傾向がわかる。 従って、精神的かつ宗教的考慮を主に基盤とした主張をする派の起源が政治的だというレッテルを貼るのは矛盾してみえる」〈注12

預言者の有名な教友だったサルマーン・アル=ファルシやアブ・ダッル・アル=ギファリがアリーを政治的指導者として考えていたのに後で宗教指導者ともみなしたとは確かに考えられない。

彼の学術書『イスラームのメシヤ』〔Islamic Messianism〕によると、学識者は、内乱が宗教としてのシーアの始まりだとしている。 「656年の内戦の初期から、ムスリムの中には指導者に関して考えるとき、それを政治的な面だけでなく宗教を強調したものと考えていた人たちがいた」〈注13
しかし、彼がここで述べたことがムスリム共同体の集会で発表され、宗教機関の一つで出版されたとき、彼はシーアの始まりをガディール・クンムの時期にあてはめたのである。
「あの出来事での預言者の宣言は、理想の指導者としてアリー・イブン・アビ−・ ターリブをウィラヤとする理想と、地上でのアッラーの目的を抑圧するための人間の勢力で陥った現実との間に不安を引き起こした」〈注14

この「学問世界の学者」と「信ずる者」との間のパラドックスは全く事実をかき乱すものである。創造主アッラーが信仰のために働く者たちを、外部(fis sirri wa `l-`alaniyya)だけでなく内部の集まりにおいて、信仰のために立ち上がることができる強い勇気をお与えになりますように。


注10.ガディール・クンムの出来事における詳細は本書の「ガディール・クンムとオリエンタリスト」の章を参照のこと。 この伝承(「神の書と私のスンナ」に対して「神の書と私の血族」)の真正さについては、スンナ派著者ハサン・ビン・アリ・アス・サッカフの「アッラーの書とその他には?」正しき道 第6巻(3、4号1997年10月−12月)44−49ページを参照のこと。

注11.この一覧の他にも『ムハンマドの後継者』ウィルフルド・マデルング(1997年出版)がある。これはアブバクルが全員一致で選ばれたカリフではなく、アリーとその従者によって反論されていたことを認識した権威ある西洋学者による初の研究書である。 シーア派スンナ派間の論争の始まりが内乱後、つまり、ウスマーン・ビン・アッファーンが殺害された後のイマーム・アリーとムアーウィヤが戦った時だったとされていた西洋および非ムスリムの学会の定説を大きく飛躍させた。

注12. 『シーア派イスラームの起源と初期の発展』S・フセイン・M・ジャファリロングマン出版 ロンドン 1979年 2ページ S. Hussain M. Jafri, Origin and Early Development of Shia Islam

注13.イスラームのメシヤ Islamic Messianism 5ページ

注14. サチェディナ『ガディール』「イマーム・アリーのウィラヤとそのイスラーム政治思想の神学的法学の意味」イスラミック・シーア・イスナー・アシャリ・ジャマアト&NASIMCO出版 1990年 54ページ Sachedina "Wilaya of Imam Ali and its Theological-Juridical Implications for the Islamic Political Thought" in Ghadir (Toronto: Islamic Shia Ithna-Asheri Jamaat & NASIMCO, 1990)








4.シーアという名前

イスラームの従者が「ムスリム」として知られている一方で、イマーム・アリーを預言者ムハンマド(神の祝福と平安がありますように)の継承者、カリフとして信じるムスリムは「シーア」として知られる。
この「シーア」という言葉は、「シーアトゥ・アリー」つまり「アリーの従者」の略語である。

ムスリムは預言者イブラーヒームに帰し、またそれが正統であることを誇りに思う。
預言者イブラーヒームがアッラーによって「ムスリム」と名付けられていることもムスリムには良く知られた事実である。
「イブラーヒームはユダヤ教徒でもキリスト教徒でもなかった。しかしかれは純正なムスリムであり、多神教徒の仲間ではなかったのである。(3:67)」

人々が知らないことがある。
アッラーが預言者イブラーヒームを「シーア」とも呼んでいたのである。
もちろん「アリーの従者」(シーアトゥ・アリー)ではなく「ヌーフの従者」としてだ。

「『万物(人間、天使、ジン)の中で特にヌーフの上に平安あれ。』と(われからの有難い御言葉を)。われはこのように、正しい行いの者に報いる。 本当にかれは、信心深いわがしもべであった。それからわれはその外の者を、溺れさせた。またかれの後継者の中にはイブラーヒームがいた。(37:79-83)」

【訳注: 83節最後のアラビア語二語−シーアティヒ・イブラーヒーム
         وانَّ مِنْ  شيعَتِه لاِبْرهيمَ

従って、自分を「ムスリム」と呼ぶ者と「シーア」と呼ぶ者は、実際、アッラーが確立なさった伝統に従って、敬虔な信ずる者の「従者」と呼ばれているのである。それは預言者イブラーヒームが預言者ヌーフの従者と呼ばれていたのと同じことなのだ。





00890.gif(1103 byte) 2章 ムスリムの歴史における検閲 ダーワ・ズ・ル・アシラの真相






















原典: Sayyid Muhammad Rizvi "Shiism: Imamate & Wilayat" (Qum: Ansariyan Publications, 2000)
〔『シーア イマーマトとウィラヤト』 
サイード・ムハンマド・リズビ(アンサリヤン出版 2000年)〕
本文は著者の許可を得て英訳による原典を和訳したものです。





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