『あなたがた信仰する者たちよ、アッラーを畏れ、(言行の)誠実な者と一緒にいなさい』

(クルアーン第9章119節)








ムハンマド・アル=ティジャニ・アル=サマウィによるスピーチ
『そのとき私は導かれた』の著者
アラビア語からの英訳 ヤシン・T・アル=ジボウリ  


慈悲あまねく慈悲深きアッラーの御名において。

栄光なるアッラーは仰せになりました。
「悔悟して信仰し、善行に勤しみ、その後(正しく)導かれる者には、われは度々寛容を示す。(ター・ハー章82)」

悔悟と確信と善行だけではアッラーの御赦しを得るには十分ではない。
正しい導きへの条件を満足させたときにのみ慈悲深き御方の御喜びにあることができる。
この栄光なる節が証明しているのはそういうことです。

イマーム・アッサディーク(平安あれ)は「悔悟し、確信を得、善行ある者のみをアッラーは御赦しになる。 そうすれば、我々のウィラヤー(権威)、我らアフルルバイトの道に導かれる」と述べたと報告されています。

『導き』と『導かれる』ということは、同義の二つの道を意味し、この二つは互いに補い合っているということがこの言葉から理解できます。 ただし、『導き』とはアッラーが御好みになった生命ある者に対するアッラーの神聖なる贈り物です。 アッラーの導きは例外なくアッラーのしもべ全員に対するものです。
次の節がそれを証明しています。

「魂と、それを釣合い秩序付けた御方において、邪悪と信心に就いて、それ(魂)に示唆した御方において(誓う)。(91:7-8)」

「われは、人間に(正しい)道を示した。感謝する者(信じる者)になるか、信じない者になるか、と。(76:3)」

導きを求めるとはどういうことか。
それは、よく調べ、確信し、自分の知性を駆使して、何が正しく何が過ちかを見分けるための知識を得ようとして 一般的な導きの模範に従い、また、導きの道を避けて通った後で、自分の意志によって導きの道を選択する。 そうやってアッラーのしもべが奮闘して個人的な努力をすることが『導きを求める』という行為なのです。


このことをクルアーンの節が示しています。

「だからわがしもべたちに吉報を伝えなさい。御言葉を聞いて、その中の最も良いところに従う者たちに。これらはアッラーが導かれた者であり、これらこそ思慮ある者たちである。(39:17-18)」

この節が意味するところは、対話に耳を貸し、すべての言葉と理論を聞いてから不快なものと好ましいもの、 乏しいものと健全なものとを区別し、過ちではなく正しいことを選ぶ者がアッラーのしもべであり、 自分の意志で自然の導きの根源に戻ろうとするアッラーの御褒めに値する理解力を持つ人びと(ULUL- ALBAB)がそのようなしもべなのだということです。

導きとそれを求めることを説明するのに最良の例があります。
それはムスリムの上に降りかかったこと、そして今日のムハンマド(彼の上に平安あれ)の共同体の上に 降りかかっている状態です。アッラーは預言者を通して共同体を暗闇の中から光の中へと導かれました。 真実の道(AS-SIRATUL-MUSTAQEEM)を歩むことができるようになさり、また、人々の宗教とアッラーの祝福を完全なものとし人々がイスラームを教えとして受け入れた後で、 その道を歩みつづけることができるようになさいました。

しかし、預言者の逝去後、共同体はばらばらになってしまいました。
人間の最良の国家となった後で、いくつもの党やグループ、多くの宗派が生じました。

その第一の原因はイスラームの教えの光を後世に伝えた最初の世代のサハーバにありました。

サハーバたちがばらばらになってしまったのは預言者の逝去後のことです。 ああ!彼らは互いに殺しあうほど戦い、互いをカフィール(背信者・不信心者)と呼んで離れました。

それから彼らに続いたのは、事をさらに悪化させ互いを引き離させたタビッイーン(Tabi'een)の訴えでした。 彼らタビッイーンはアッラーの教えと全く関係ない新しいイデオロギーと論理を広めました。 それによって党や宗派が生じ、教えは放棄され、ムスリムは暗闇に包まれた個々のグループへと分裂し、 どこに真実があるかをみつけることができなくなりました。

なぜなら、聖なるクルアーンの教えとスンナを保持しているのは自分たちだと各グループが主張したからです。 そして預言者を継いでいるのは自分たちだとし、それぞれの言い分にみな満足しているからです。

感情をわきに置き、やみくもに従うのを辞め、狂信者になるのを放棄し、物事を先見の目で見極めるようにして、 さまざまな宗派や党と比較しながらアフルルバイト(彼らの上に平安あれ)の地位というものを問うてみるべき なのです。

逸脱しないための導きと保護を保障するために、預言者はウンマにあらゆる教義と現世の問題において アフルルバイトにすがるよう命令なさりました。そのハディースに出くわしたときはなおさらのことでしょう。 実際、そのような伝承は少ないのです。それらは真正なる伝承です。 さらに、預言者は次の御言葉でそういった伝承に従うよう語りました。

「私はあなた方に二つの重大なことを残す。アッラーの書と私の血族(Itrat)、私のアフルルバイト。 私が去った後、この二つにすがる限り、あなた方は道を逸脱することはない。 私のアフルルバイトに関してはアッラーを畏れなさい・・・」預言者は最期の句を三度繰り返されました。

アフルルバイトおよび全ムスリムに対する彼らの位置付けについて調べた人は、彼らへの尊敬と畏敬の念 以外にない、ということに気付くでしょう。 しかし、預言者の遺言はただアフルルバイトを尊敬せよというだけではなかったのです。

そうではなく、預言者はムスリムにあらゆる面で彼らにすがり、彼らの足跡と彼らの生き方に従い、 彼らを見習うように命じられました。 そのことは預言者が次のように言われたほどでした。

「彼らの先を行ってはならない。さもなければあなた方は堕落するだろう。彼らに後れを取ってはいけない。 さもなければあなた方は堕落するだろう。彼らに教えようとしてはならない。なぜなら彼らはあなた方より ずっと知識があるのだから」

信者の司令官イマーム・アリー・イブン・アビ−・ターリブ(彼の上に平安あれ)の時代から今日まで、 この預言者の遺言通りに実際にアフルルバイトに従っているグループは一つしかありません。 そのためこのグループはイマームの時代に『シーアトゥ・アリー』つまり、アリーの従者と呼ばれていました。 時が経過すると共にこの『シーア』という言葉は、アフルルバイトからであるアリーとその純化されたイマーム たちをマスターとして従う人たちを指すようになりました。

ところが歴史の紐を解いてみると、このアフルルバイトの人々とその従者たちは常に抑圧され、公的な活動から 除外され、最初の三世紀の間にムスリムを支配した政治的組織や政府と戦わねばならなかったという事実を 発見します。

こうした支配階級は、イスラーム国家を本来の指導者から孤立させ、真理の道から引き離しました。 しかしながら、彼らは預言者の家族に対する愛と畏敬の念をイスラーム国家から放棄させることはできません でした。説教壇から冒涜と誹謗を浴びせ、人々にそれを強制しましたが、支配者たちは結局、預言者の子孫 への忠誠と愛情を人々から取り除くことはできませんでした。

こうした議論から、アフルルバイトに対する態度に関し、大多数のムスリムが矛盾しているのがはっきりと 見えます。 それがなぜかを説明することができます。 この大多数は誰よりも自分たちに知識があると考え、自分たちが誰よりも優れていると思っています。 彼らは、神の使徒を知らず、使徒の時代を生きたサハーバではないイマームたちのアカムとシャリーアに従って それを模倣します。このイマームたちは大いなる不一致の後の産物でした。 教義の形を歪ませ、敬虔な人々を除外し、アフルルバイトとその従者を異端者として見捨てたのです。 アフルルバイトのイマームたちのことを大多数のムスリムは知らないままなのです。

彼らに「アフルルバイトとは誰のことか」と尋ねれば、「預言者の妻たちである」と回答するでしょう。 アフルルバイトにすがれよ、と預言者がウンマに命じられたとき、それが自分の妻たちではなく、 我々がアッラーの祝福を祈願する十二人のイマームたちのことだったとするのは当然です。

だから預言者はアフルルバイトについて
「私の後のカリフは十二人である。彼ら全員がクライシュ族からの者である」と述べておられるのです。

研究者には事実がよくわかっています。 いかにアフルルバイトのイマームたちが自分たちのことを人々に知らせて人々を自分たちのところに 連れ戻そうとしていたかを。

しかし、人々は現世の奴隷でした。人々は自分たちの利益のために宗教を口先だけのものとしていました。 苦難で試されたとき、その中のわずかの人たちが真の信者であることを証明しました。

イマーム・アッサディークがクルアーンの節
「だが悔悟して信仰し、善行に勤しみ、その後(正しく)導かれる者には、われは度々寛容を示す。(20:82)」 を読誦なさるたびに「だから我らアフルルバイトの正しい導きに従いなさい」と言われたのは、 このような状況があったからでした。

栄光なるこの節からもう一つ理解できることがあります。ムスリムが心で強く確信し、アッラーとその使徒を 信じ、犯した罪を後悔して善行を始めたとしても、それだけでは全く十分ではないのです。 いくらそのすべてを実行したとしても、ある一つの条件を充たしていなければアッラーの御赦しを得るに 値しません。イマームたちの導きを通じて導かれなくてはならないということです。 イマームたちは、クルアーンとスンナの意味をムスリムに教えることができる唯一の資格を持った預言者の ワシスWasis(後継者)です。そのイマームたちの導きを通じて導かれなくてはならないのです。 そうしたときの確信と善行と悔悟は、不義があったり解釈を加えたりすることなしにアッラーの御命令と完全に 一致するのです。

クルアーンの解釈はすでになされ、預言者のスンナはすでに歪み、各党派・宗派は自分たちの勝手な解釈で クルアーンから導きを求めようとしました。 自分たちの伝承を真正として信じ方を正当化させ、不一致が生じ、混乱と疑惑だらけになってしまいました。 ムスリムが、天国の保障とアッラーの御喜びを求めて、審判の日の救済と逸脱した道から身を守るために 真実を知ろうと望むのであれば、救済の箱舟に乗り込んでアフルルバイトにすがらねばなりません。 アフルルバイトだけにウンマを保護できるからです。 アッラーは彼らを通した者、彼らの門をくぐりぬけてきた者のみをしもべとされます。

このことは神の使徒がすでに御決定なさっており、アッラーからの命令をウンマに伝えられているのです。 従って、使徒の逝去後のサハーバと彼らに生じた不和を見てみると、彼らの相違の原因がウンマの指導者で あるカリフの地位争いにあることがわかります。その後の数々の不和もまた同じカリフ問題に起因しています。 その価値のない者が指導者となり資格を満たさぬ者が支配すれば、間違いなくウンマを逸脱させてしまう でしょう。そのような者の独裁は、無知と気まぐれと欲望に基づいているからです。

イスラームのカリフが忘れられた今日、アッラーの御慈悲を信じ、また、それに戻ろうと呼びかける者たちは もはやいなくなりました。ムスリムは自分の知性によってそれを取り返そうとしているでしょうか?

平穏、同胞愛、そして平和に共存するために、また、ウンマの不一致が生じた後の統一のために、預言者の 遺言を実行し、神の書と預言者のスンナと預言者のイトラ(血族)にしがみついているでしょうか? これはそれを心から愛する者の同胞から同胞への真の叫びなのです。

さて、導きとはアッラーがそのしもべに御授けになった偉大なる祝福だということを知りました。

また、アフルルバイトに従い彼らを見習えよという導きが偉大なる祝福であり、罪深きしもべがアッラーの 御赦しを得られるほどそれが価値あるものだということを理解してきました。 それでは、そのような道を歩みつづけるための奮闘とはどのようなものなのでしょうか?

イスラームにおけるジハードには二つの種類があります。 敵に対するジハード、いわゆる小ジハードと呼ばれるものと、大ジハードと呼ばれる自己(ナフス)との戦いが あります。

ここで我々に関係するのは自己に対する大ジハードです。逸脱した教義が引き起こす病理への治療です。 人は自己との戦いのためにジハードすることもあれば、他人との戦いでジハードすることもあります。

自己との戦いとはどういう意味でしょうか。 それは、善行し、儀礼を守り、敬虔な人々を仲間とし、アッラーの命令でアッラーの教えを伝えた預言者― 偉大なる先祖―から教えられたことを引証するアフルルバイトの決定に従って他者とのかかわりをもち、 これらを持続しようとすることです。

人と戦うジハードは、何が正しく何が間違っているかを教え、英知と忠告によってアッラーの道に招待すること です。このようなジハードの手段は、述べて伝えるという形もあれば、筆で伝える形もあります。 筆で行うジハードはより優れています。アッラーは剣で行うジハードより筆のジハードがより優れていると 仰せられました。

神の使徒(彼の上に平安あれ)はこう言われました。
「アッラーの御目には殉教者の血より学者のインクがより良い」

学識者は正しいことが何かの説明を記録し、それを奨励し、人々が偉大なる証拠と説得力ある議論によって アッラーのアッサラートゥル・ムスタキームの導きを見つけることができるようさまざまな問題を明確にさせます。 アッラーの御目には、戦争を引き起こして人々を強制して宗教を確立させるよりもその方が優れているのです。

アッラーは次のように仰せになりました。
「宗教には強制があってはならない。正に正しい道は迷誤から明らかに(分別)されている。(2:256)」

従って、学識者には、本来のイスラームを広め、人々にアフルルバイトのイマームたちと彼らの知識を紹介 することに自分たちの富と時間を費やす義務があるのです。 カフィール(背信者)、不可知論、腐敗を促進し、何百万ドルも無駄にするような体制・組織はいくつあるで しょうか。その一方で富豊かなムスリムたちはアッラーのためにわずかしか費やそうとしません。

同胞たちは無関心なままでいるのに、不信人者たちが飢餓を助けるためにソマリアに行くのを我々は 見ています。 キリスト教の宣教者たちは、エジプト、スーダン、インドネシアその他のムスリムの国々はもちろんのこと、 アフリカ東西を駆け巡り、大金を費やして人々のために食べ物や薬を買い与え、それを受け取る人々の心を 勝ち取ってイスラームからキリスト教に改宗させています。

その一方、しもべの益のためにアッラーが信託なさったはずの富をもつムスリムたちは無関心のままでいます。 基本的な生活ができぬほど貧困にあえいでいる隣人がいるというのに、ムスリムの中には二十回も巡礼に 行き、毎年大金を浪費する人たちもいます。

神の使徒はこう言われたではありませんか。
「あなた方の中でアッラーに最も近い者は、アッラーのしもべに最も益ある人だ」

どうしたらアッラーはあのような行為を受け入れられるでしょうか?
アッラー・スブハナフ・ワタッアラーは人々へ一生に一度巡礼を行うよう命じられました。

神の使徒はその生涯のうちにたったの一度だけ巡礼を行われましたが、それによってウンマの中には富に 恵まれながらも極端な宗教儀礼を行って他者への善行を忘れてしまった人々がいるという事実を我々に 気付かせてくださいました。

このような理由で使徒は頻繁にこう言われたのです。
「アッディーン・アル・ムッアマラー」つまり「他者とどう公平であるかが宗教である」と。

他の人にお金を借りてまで何度も巡礼に行く人をあなたはどう思いますか?
 或いは、貧しい親戚に対して思いやることも助けようともしないのに何度も巡礼に行く人をどう思いますか?

こういったことに加えて、浪費の罪を犯しているムスリムたちへのアッラーの判定は非常に厳しいでしょう。

タバコの浪費を例にとってみます。
ムスリムの国々でタバコに浪費する金額をざっとみてみると、その統計に驚かされます。
例えば、今日、ムスリム人口は十億人以上いるとし、その五パーセントが喫煙者とします。
その結果、ニ億人が一日に約二百万ドルをタバコに使っていることになります。
そうです。ムスリムは年間に七億二千万ドルものお金を致命的病気のために浪費しているのです!

ムスリムの皆さん、アッラーを畏怖なされよ。自分自身のために。自分自身の富のために。
それほどの富を無駄にしているとすれば、十年で七十二億ドルにもなります。
それだけあれば地球上の東から西の貧困に苦しむムスリム全員を救うことができます。
「・・・アッラーの御目には重大なことを、軽く考えていた。(24:15)」

最後に、アフルルバイトの法学に従うシーア同胞の皆さんに注目していただきたいことを述べます。

1. スンニ同胞と議論するときは、最も美しい方法を取りなさい。誰にも誹謗中傷を言ってはならない。 信者の司令官イマーム・アリー・イブン・アビ―・ターリブ(平安あれ)は「誹謗中傷してはいけない。 あなたはこれこれの行為をしました、とだけ述べなさい。これが最も賢明な議論の方法である」と 述べています。

2. 宗教儀礼を行うときに他の人と関わらねばならないとき、イマームたちの時代或いは神の使徒の時代に 発生したあらゆる作り事を避けなさい。 例えば、アシューラーのときにタッビール(とがったもので頭を打つこと)することは避けねばなりません。 アシューラーの追悼で血を流すようなことは人々を遠のかせ、アフルルバイトの教えに従うのを 思いとどませてしまいます。 イマーム・アッサディークは「我々の目的を人々に伝えるためには、あなた方の舌ではなく行為でそう しなさい。我々の装飾でありなさい。我々を汚すようなことをしてはならない」と述べました。

3. あなた方が講演や学会で話し合うときは、人々を感情的にし論理に矛盾するような弱い伝承を用いて 議論するのは避け、スンニのサヒーフの書から証拠・議論を引き出して強調なさるとよい。

4. アフルルバイトのイマームたちがそうだったように、あなた方も誠実かつ率直にあろうとしなさい。 アリー・イブン・アビ―・ターリブを愛し彼に従う者にだけ取りなしをなさるだろうという議論にのみ頼っては ならない。なぜなら、彼自身がこう語っています。 「確信は望みや欲望、或いはふり(見せかけ)で得られるものではない。確信(イマーンIman)とは心の 奥深くに横たわるものであり、言葉と行為によって証明されるものである」

5. 純化されたイマームたちの時代の話から道徳の教えを学ぶべきです。 彼らが我々に残してくださった遺産は他に存在しないほどのものです。 例えば、『ナフジュル・バラーガー』(雄弁の道)【訳注:イマーム・アリーの説教集】一つをとってみても あらゆる病理への治療が書かれてあります。 イスラーム国家を文明と進歩の最高点に到達させるために、無知と後退の埃を払い取る時がきています。 シーアのイマームたちは知識の門です。あらゆる知識を探求するためには、その従者が先頭に立たねば なりません。

6. アフルルバイトに従うシーアは、あらゆる種類の政治的派閥や地域格差を放棄して統一し、 全ムスリムと力を合わせて最大の努力を払うべきです。

以上の私からの提案は至大至高なるアッラーのクルアーンと栄誉ある預言者(平安あれ)のスンナ、 そしてアフルルバイトの法学からの教えを引用したものです。 シーアの人々がこれに従えば、平安は訪れるでしょう。 アッラー以外の者の無知や偏見を取り除けば、我々の貧困や屈辱が富と名誉に変わるでしょう。 そして我々のイマーム・マフディー(平安あれ)が再臨し、不正儀と抑圧に覆われた地球上に平和と平等を 満たすでしょう。

最後の祈りで終わります。
すべての賞讃は万有の主アッラーにある。

(本文はal-Islam.orgの記事を英語から訳した)











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